2018/10/22 14:23

先日の「乗りこえられないテストは普通天は与えない」という発言についてですが......


このせりふについて疑問がおありであった方もおられたかもしれません。


よく知らないで言ったのであろう、という投げかけは全くその通りでした。

宗教という考え方でもなかったのです。


自分の経験上の言葉でした。


ただ、世間一般でのご認識は、聖書の一節だったようです。

ここで、「乗りこえられない試練は神は与えない」という言葉に変換されるようですね。

この言葉は一応知っていましたが、きちんと知っていたわけではありません。

調べてみますと、かなりの反感を持たれておられる一節のようでもありました。


なぜなら、自殺や犯罪など、乗りこえられないではないか...ということのようでした。


私の意識と立場についてできるだけ明確にしておきたいのですが、


特定の宗教、個人さまのお考え、ご感想を否定するつもりは一切ありません。



そのうえで、テスト...「試練と誘惑」についてですが

キリスト教における「試練と誘惑」について早急に自分なりに調べてみましたが、

定義について、様々に個人でもわかれておられる印象を残念ながら受けました。

ですので、今、厳密に不勉強なことについて論じることができません。




しかし、自分の言葉「乗りこえられないテストは普通天は与えない」についてご説明させていただくと、


神はいると思っているのか、という点からですが、結論から言いますと広い意味でいると思っております。

感覚的にもそうなのですが、合理的に考えて、いない、と考えるとつじつまが合いにくいところが多いように見受けられます。

宇宙を作り、草花一本砂粒ひとつ作成したのは何か、時間を流しているのは何か、という疑問にはこれしか答えがないのではないだろうか、という考えです。

呼び方は『自然』でも何でもいいと思います。

国によって違うのも言葉が違うのですから当たり前ではないかと思います。


神はいない、という考えも否定いたしません。

尊重すべきと思いますし、そういう生の受け取り方もあるはずです。



長々と書きましたが、テストについてですが

試練は厳しいものが多いかもしれません。

普通にお金を稼いでいく、人間関係など...

なんとかやっていかれる方が多いかと思います。


なんともできない試練についてですが...死別など

結論から言いますと、

「どうしていいのかわからない、なぜおこるのかもわからない」

のが私の意見です。

無責任ではないか、とお怒りでしょうが、それを何かわからない力に何とか頼っていくのが現実ではないかと思います。


何かわからない力とは、「無意識」でも「神」でも「自分」でも良いと思うのです。


私の経験上ですが...死ぬような思いを何度かしたことはありました。
死んでしまおう、と思ったことも一度二度ではなかったのですね。
その度にどうにか踏みとどまって生き長らえてこられたのは、やはり「何かわからない力」があったのではないかと思います。


これについて言う場所ではありませんので、ここまでにいたしますが...


以上を持ちまして、「乗りこえられないテストは普通天は与えない」、というご説明になれただろうか...と思います。


長文大変失礼いたしました。


私の発言により、必要以上に苦しい思いをされました方がおられましたら、慎んでお詫びをし、また訂正せねばなりません。


申し訳ありませんでした。



ここまでお読みいただき、感謝いたします。